オノマトペの日本語 vs 西欧語のこと。日本語の擬態語「ポツンと」は凄いー2020年10月10日 22:46

毎年実施してきた「舞踏 butoh」のワークショップには、海外から参加してくれますが、今年の夏の六日間の集中ワークショップは、残念でしたが、コロナ禍のため二つとも休止にしました。まっ、実際はビザが発行されないし、日本に到着しても2週間ほども留め置かれるので仕方がありません。

 日本人に動きを伝えたりするとき、「クルクル回る」とか「グルリと回って見得を切る」とかオノマトペを使って言うと、さっさとその動きをしてくれます。しかし、これを英語で言うと、"turn several times lightly"(何回か軽い感じで回ってね)とか、"turn once, say, gravely" (うーん、重々しい感じで一回回ってね)と言うことになります。

ダンスセラピストの専門家がアメリカのダンスセラピーの学会にて、「日本での踊りや動きとオノマトペ」の関係について発表したのですが、何と?!アメリカのダンスセラピストの人たちがオノマトペについて「what?」という事態で、オノマトペの説明をしているうちに発表時間が切れて…といったお話しでした。

オノマトペのうちでも、擬音語・擬声語(ぎせいご) の場合は、実際に聞こえる音や声や鳴き声なので、音の表記は言語によって違うにしても、まあまあそれなりに分かり合えます。ワンワンがbow-bow、ニャンニャンがmewとか、ドンドンがbangとかいう類いだからです。
ところで日本語には、擬態語(ぎたいご)といって、実際には音はない状態や出来事にもオノマトペ(この場合は「模擬の」という意味で mimetic word)が潤沢にあるのです。「ミメティック・ワード」ですが、mimeはマイムという言葉と一緒ですね。

「ポツンと一軒家」というタイトルのテレビ番組は、たまたま見てからすっかり好きになりました。90代とか夫婦が山奥の一軒家に屈託無く生活して、レポーターには家の畑で野菜を取ってきてご馳走したり、苦難の人生を語るなど骨太ですが、何とも穏やかで幸せな感じになります。
この「ポツン」というのが擬態語のオノマトペです。元々、「孤立して山奥に住む」ことに「ポツン」という音がするはずはなく、オトは無いわけです。しかし、日本語では音のしない物事に「オノマトペ」としてオトを振り当てるという特殊能力が備わっているのです!その反面、日本語をあまり知らない人には実に難解なことになりますね。
※『擬音語・擬態語辞典』 金田一 春彦 著(1978年)では細かく五つに分けていますが、このブログでは擬音語と擬態語で代表させています。―
「擬音語」:ざあざあ,がちゃん,ごろごろ,ばたん…
「擬態語」:きらきら,つるつる,さらっと,どんより…
「擬声語」:わんわん,こけこっこー/「擬容語」:うろうろ,ふらり/「擬情語」:いらいら,うっとり…

疑問「本来は音がない物事に、日本人はどうして音的な言葉(擬態語)を使うことになったのだろうか?」

それを考えていくと、一つの可能性として「母音と子音とを同じ大脳左半球で一緒に処理するから!」ではないだろうか―。そうした解釈は以下に示した『日本人の脳』を書いた角田博士によるツノダ理論によるものでした。とりあえずは、勝手な私見ですが、個人的には「それ以外に解釈する方法は見当たらないのではないだろうか」と。

だから、暗黒舞踏の創始者・土方巽が「舞踏とは…必死に突っ立った死体…」といったような表現と知り、「…そうか。ではまず、ポツネンと立ち尽くして見ようか…」といった擬態語が出てきます。「…死体なんだから硬直していて…。そういえば土方の言葉に<印鑑体>というのがあったし…。インカンとして立つっ…」となれば、突然、「インカンたる死体」という擬態語が一回性の中で成立したりもします。

この時、母音がはずせない母音言語である日本語としては、音響としてはあまり出会うことのない「ア・イ・ウ・エ・オ」という母音を含む、「音的な言葉」として口から出て来てしまう。

「ポツリ、ポツリと語り始める」という言い方も、間合いがまばらな出来事を表す擬態語として発語されます。「ポツンと一軒家」はまだ、家があり人が住んでいる風情が無意識に感じられるけれど、「ポツンと立ち尽くす男…」ならば、もう生きていけないかもしれない程の老人の寂寥感・孤独感が「ヒシヒシと」(擬態語…)伝わってきます…。ワタシ…!?

海外での失敗談―。数名で車座になって座り、隣の人に「ザブーン」と言いながら全身で波を送る動作をして、「隣の人にも波を伝えてください」。日本では「ザッブーンッ!」と大波になったり、「チャプン」と小波になったりしながら参加者が付き合って遊んでくれます。
これをそのまま海外でやって大失敗となりました…「波がなんでZaboonなんだ?!」「Shoooo! シューッとかだろうがっ」という訳です。ザンネン。

「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」と詠めば、
おおみのみ…と、オとイという母音が響く 国のお話しでした。
または「はなののののはな、はなのななあに、なずななのはな、なもないのばな」(谷川俊太郎)では、ア音・オ音が豊かに伸びていきますね。

※「母音言語の日本語 vs 子音言語の西欧語」については、大脳左右半球の使われ方が、日本と西欧とで大きく異なることが研究されています。
ブログ「日本人に西欧語は聞こえにくい― 母音の大脳左右半球での処理と角田理論」 (10/4のアサブロ)
(再掲)

日本人に西欧語は聞こえにくい― 母音の大脳左右半球での処理と角田理論2020年10月04日 16:52

10年ほど前、イギリスで一年ほど暮らしていました。ロンドンでは様々に訛った英語に出会って困ることもありましたが、それなりに生活をしてきました。
 その頃、オックスフォードで英会話の勉強に来ていた日本人と会いました。しかし、彼は日常会話もできず、世界各国から来ていたクラスメートに侮蔑的な扱いをされておりました。日本で何年も働いてお金を貯めて、わざわざイギリスまで勉強に来ていたので気の毒に思い、「日本人は現地でよほど英語を勉強しても、聞き取れないのですよっ」と伝えました。「単純な努力だけではなかなか聞こえないですよっ」とも言いました。すると、少しホッとしたような顔を今も思い出します。

 私の世代では、英会話や発音の授業は中高でもほとんどなく、会話に触れたのは大学に入ってから、それもたまたま生の英会話を勉強する機会に出会ってからでした。それから、30-40年間、ラジオの英会話を録音してイヤーホンで聞き続け、左の耳穴がただれ、右の耳穴がただれ…。そうやって反復して聞いても、どうにも英語の音が頭に入ってこない!という絶望にさいなまれつつそれでも何とか頑張ってきた…という、悲しひ過去のお話しでした。※英語論文などを読まないといけないので致し方なし…。



実は、1978年に出版された『日本人の脳」(角田つのだ 忠信著、大修館書店)では、日本人が音を聞いて認識するときの大脳左右半球の使い方が、何と!西欧人とは大きく異なっていること、が書かれていました。
※もちろん、自分で「使い方」を自覚するのではなく、母音とか子音とかコオロギの声とかハミングとか機械音などが、自動的にどちらの大脳半球によって処理されるかが、日本人と西欧人では異なるということです。

初めて読んだときは、本当に目からウロコが落ちる状態でした。音の情報処理のシステムが日本人と英米人では違うのだ、と。オックスフォードで出会った日本人に話したときと同じ反応で「えっ、そうだったのか!」だったのです。
 定年となり、ある程度ヒマな時間が出来たのでトライしたのが、英語の無料映画をインターネットで見続けることでした。コロナ禍でもあり、時間があるときは英語のテレビドラマや英語の映画を大量に見ることが出来ました。それも、ブルートゥースで音声をヘッドホンまで飛ばして「きちんと聞く」体制です。すると、ブロークンで曖昧な発音のギャングの4文字侮蔑語やら鼻声やらも少しずつ聞こえやすくなってきたのは、この年齢としては望外の喜び…(将棋の若手ホープ、藤井聡太二冠が使った言葉)。^_^;
年なので、英語の高い音はやはり耳には届きづらいのですが、慣れればそれなりに届いてくるのは嬉しいものです。

いずれにしても、ツノダ理論に基づけば、大脳左右半球への音声処理の回路に介入することがないと、日本語話者は「西欧語への耳が養えない」という、往年の発見を再発見しつつあります。コロナ禍にあり内向きにうろうろできる時代なので、この際に「西欧語という子音言語」に挑戦してみるというのは如何!? とりあえず、私のやり方は簡単ですー「日本語の母音をできる限り発音しないで独り言を言う」―「k'n'n'ch'wa」「m'z'k'sh'd's'」…。

※物事の認識の仕方が母語である言語によって大きく左右される、という「言語相対性仮説」(Sapir and Whorf)では、西欧語をまとめてSAE言語(Standard Average European語)と呼んでいます。また、そうした西欧語の「I am a boy 」といった主語・be動詞 (copula)という「I = boy」形式の抽象度の高い表記に含まれる「認識の構造的な問題」については、ポーランド出身のコージブスキー(A.Korzybski)が「一般意味論」("Science and Sanity", 1933)を通じて明らかにしています。

「思考停止」のGoToキャンペーン。感染対策は、ない。2020年07月18日 10:42

「認知の歪み」というキーワードを使って、人の非効率的な言動を修正しようという認知療法ですが、実は根本的なところに誤りがあります。元々は、A.コージブスキーによる「一般意味論」の内容をほぼそのまま取り入れて提起された「論理療法・論理情動療法」から展開して「認知療法」が出てきたのですが、次のような混乱が起きてしまいました―。

一般意味論⇒
 人類一般の認識には本質的に(認知システム内に)誤りが組み込まれている。

認知療法⇒
 心理的な問題を抱える人たちには「認知の歪み」があるので、それを修正しよう。

つまり、臨床心理士の方などが「あなたには認知の歪みがあります」という言い方は全く不正確であって、まずは「私たち人類にはどうしようもない認知の歪みがあります」と言わなくてはいけない―ということです。
 「人間の認識上の歪み」の問題を相談相手の個人的な問題へとすり替えてしまっている…というところに本質的なズレがあります。

 一般意味論は1933年に出版された『科学と正気 Science and Sanity』によって、その基本が説かれたのですが、その本は大著であり、また内容は論理学から集合論の陥穽、そして相対性理論まで網羅する内容だったため (翻訳を試みていた先生はおられますが…) 出版を引き受ける出版社はなく、日本語で部分的に紹介する本が出版されただけで時代が過ぎ去ってしまいました。実に残念なことでした。

 人間の認識について、よく知られていることとしてはソクラテスの「無知の知」ということが挙げられます。「自分がそのことを知らないで居る、という事実に気がついて、知らないままであることに気がついている」といった意味です。哲学の出発点のように紹介される、基本的な事柄だといえます。
 「思考の出発点…」ということについて考えると、それは様々ですが、その際、ほとんど見落とされることがあり驚愕することになります。それは、「出発点…」はともかくして、さて、それでは「その出発点」となったポイントの一つ前にさかのぼることについては、その可能性を含めて「無知のまま放置されている」という事実です。
 よく知られている例を挙げてみます。「基準」とは何か―です。「何々は重い」といった普通の文章でもそうですが、「重い」と判断する基準があったわけです。しかし、その基準は暗黙のうちに使われて文章として表出されて「…重いのだ…」ということになりますが、「一体、何を基準として重い」と言ったのかが不明のまま放置されています。
 「基準」についてはさらに恐ろしいことが起きてしまいます。「それを重いとした基準が分かったとして」「その基準が正しいモノとして選ばれた、その際の基準は何だったのか…」ということになります。
 普通の人はこの段階で意識を失うか、別のことへ意識を切り替えて問題を素通りすることで、日常生活を続けることになります。
 「…を基準とするためには、それを基準として妥当だと判定出来るような、より基本的な別の基準が必要となり、…さらにそれを基準とするためには、さらにさらにそれを判断する別の基準が必要となり…」という訳で、無限遡及(むげんそきゅう:かぎりなくさかのぼる)に至るわけですね。

 このブログは「テツガクの場」でも何でもないのですが、非常に大事なことは「思考停止」つまり、それ以上にさかのぼらない…という意味で、「思考の出発点が存在して、それと同時に、それより先には遡らないという思考の限界点が存在する」ことに共感してもらえればと思います。

 残念ながら私は、コロナ禍の中で蠢く政治の世界の魑魅魍魎に関わり合う関係はないので、とりあえずは外野席から眺めているに過ぎません。その外野席から見えてきたことの一つが「PCR検査を拡充しない」という政府の思考停止状態でした
 これは元々、検査の精度に関わり、どうしても偽陰性すなわち、本当は陽性なのに「罹っていない」というエラーが一定の割合で出てしまう懸念から出発していました。
 ただし、この偽陰性などは確率の数値できちんと計算できるので、計算されるリスクという意味では分かりやすい事柄でした。しかし、PCR検査に伴う実際的な困難の数々― 1)本当は罹っているのに間違って陰性となる偽陰性の問題がある、 2)検査者が飛沫感染の危険にさらされる、 3)手作業なので作業が困難 (本当は専門的な機械で正確にかつ感染の可能性なく検査できるのですが、この事実はなかったことにされています)、 4)検査には10数時間かかる (これも様々な新しい方法では1時間とか可能)、 5)検査で陽性になっても受け入れる病床・病院が限られている―。
 こうしたことから「PCR検査はすべきではない」という暗黙の姿勢ができあがりました。国際的には見ても世界中から「!?」という驚愕を招くことになりました。また、抗原検査にしても抗体検査にしてもやはり疑陽性・偽陰性の割合が低くはないことから、政府としては「検査精度に問題があり信用ならぬから使用しない!」となって推移しています。

 こうした実績から推測してみると、「PCR検査を行わないでおけば、崩壊直前の貧弱な医療体制がとりあえず壊れず政府の体面が保たれる」という政略的な姿勢が基本にあった、ということも考えられます。

 いずれにしても、政府として国策として感染対策を増強することはなく、せいぜい、各都道府県の知事達に現場で頑張らせておけば良い…ということになってしまいました。
 このため「偽陰性の問題を確率的にきちんと把握しながら、感染対策を打ち出していく…」という姿勢が打ち捨てられました。そして突如として「観光に金をばらまいて、観光関係領域が経済的に生き延びられるようにする」という施策=GoToキャンペーンが登場したわけです。466億円かけたアホノマスクと似たパターンです。
 これには、抗原検査で陽性の人はJRなどの駅や空港で「ダメです」と拒否されることもなく、検査に関わる経費など拡充して防御をすることもなく、ただただ「感染を恐れず行け!GoToトラベル!」という、肉弾三勇士状態でスタートしました。重ね重ねの「思考停止」状況です…。というわけで、むかしの古い話と全く同じ構造になっていることにあらためて驚き呆れます。

この「全員突撃」を日露戦争の例で見てみましょう。当時、ロシアは連発発射できる機関銃(ロシア軍マキシム機関銃)を203高地に設置して、日本陸軍歩兵部隊が突撃してくるのを阻止しようとしていました。
 当時の大日本帝国陸軍は、元込め単発発射の銃を歩兵に持たせ「全員突撃!」の号令のもと、多数の歩兵が機関銃に向かって進み、あっさり撃たれ続けて「名誉の戦死」をさせられました。同じような場面は第二次世界大戦でも繰り返されています。
 死ぬのはお前の責任で、陸軍は関知しない…。旅行に出かけ、あるいは旅行者を受け入れて、新型コロナウイルスに罹って苦しむのはお前の責任であり、当局(国交省)は一切関知しない…。感染の危険について「思考停止」の無責任体制という点では同根の状態で、実に気持ちの悪い形で「歴史は繰り返す」のです…。

6/29月 退院1037人,治療中196名!昼カラオケ感染はなぜ北海道だけ?2020年06月30日 09:46

6/22月 感染1182人,退院994人,治療中188名
6/23火 感染1183人,退院1003人,治療中180名
6/24水 感染1183人,退院1011人,治療中172名
6/25木 感染1199人,退院1015人,治療中184名
6/26金 感染1204人,退院1027人,治療中177名
6/27土 感染1205人,退院1031人,治療中174名 (図)
6/28日 感染1222人,退院1037人,治療中185名
6/29月 感染1233人,退院1037人,治療中196名!
* 北海道の感染状況。
これまでの死亡者99人 (北海道新聞朝刊から)

北海道は入院治療者数が増えてまた200人に戻りそうな勢いです。かなり残念です。それにしても、昼カラオケは全国各地にあるのに、なぜ北海道だけで発生?というところ。なお、高齢者施設での新たな感染クラスターでは、外部からディケア利用者が関わっている模様です。

 以下はまったく個人的な印象に過ぎませんが、北海道の人(特に中高年)は全体的におおらかな感じで、少し言い過ぎとしまうと世界的に見てもかなり「お人好し」度が高いようです。つまり、原理原則に厳しくなく、しぶとく利害にしがみついたりしない…といった傾向です。言ってみれば、「寝首を掻く(ねくびをかく)」方ではなく、ぼやぼやして寝ている間に首を取られる側ですね。
 若い時分に泊めてもらったアメリカインディアンの居留地、そこの人たちにも似たような感じをもった記憶があります。優しいというか大らかというか…。アメリカ大陸の先住民、インディアンの人たちは、ヨーロッパから入ってきた白人達によって駆逐され、貧しい土地(居留地)に追いやられた悲しい歴史があります。北海道の場合は、和人(シャモ)によってアイヌの人たちも追いやられるという同様の歴史がありました。いずれにしても、厳しい自然の中で生活していた狩猟採取の先住民は、食べられなかったりする脆弱な生き物同士として、ある種の寛容さをもってしまっている…そんな風に感じています。
 小樽の昼カラオケによる感染クラスターは、そうした観点とは少し異なりますが、明治時代に食い扶持を求めて日本各地から流入してきた多種多様な入植者達と流れ者達(少なくとも私の父の父がそうでした)、そして、その子孫に培われてきた「北海道民の大らかさ」(断念の結果、ボヤーと生きている?!)…それが裏目に出たのではと思っています。こうした感想は当事者ならではのことで、これをブンカジンとかユウシキシャとかに語られると腹が立つ訳ですが、リスクをかかえている高齢者としてあらためて気をつけなければと自戒しています。

ネーミング・名付け― 特徴だとしてそれを言葉にすること2020年06月27日 09:37

6/24に接触確認アプリのネーミングの悪口を書きました。たまには悪口の一つも言っておかないと…というところです(^_^v。
 正確に言えば、「実態とつながらない名称・ネーミングは認識を歪める」からで、理屈としては一般意味論ならびに多元的現実論に基づく判断です。まっ、それはそれとして…。
 「E電」…。イーデンと読みますが、アグネスチャンとか小林亜星などが委員となって決めたのでした―東京の山手線などを「E電」と呼ぶと。iPXXとか「i」が付く名前が増えたように、「e何とか」のノリと一緒の発想でした。しかし、思えば「電気ブラン(デンキブラン)」という名称の酒は明治とかです。古い話の蒸し返しで「E電」と聞いて思わず鼻白みました。(はなじろむ…とはどういう鼻の状態か…これはまた別の話題「慣用表現の怪」)。

 プロ野球も再開しましたが、ファイターズの現在の本拠地である札幌ドーム、かつて名称を公募して選ばれたのが「ヒロバ」とかです。誰も使わないうちに消え去りホッとしたものです。札幌駅から大通公園に向かう地下歩行空間(少し広いので「空間」として威張った感じがあります)、これも名称を公募して「チカホ」となりました。若者が普通に言いそうな言葉なので、まあそれで良いのかもしれません。
 それにしても、最悪は学者先生様達の名付けです。あの美味なるウニ・ガンゼを何と「馬糞雲丹(バフンウニ)」―。芳香がかぐわしい初夏のアカシアを何と「ニセアカシア」と命名されたのです。せめて丸雲丹とか、キタアカシアと名付けられなかったのかー。骨粗鬆症(こつそしょうしょう)もその手の名称ですね、せめて骨少々とか…失礼。
 そうした愚かしい批判はともかく、名前の付け方で現実が変わる・動くという社会学的な実態があること、名称に基づいて人は行動するという心理学的実態があるため、名称・呼び方には注意しないといけないと思っています。
 名前を与えると差異化されます。他の何かや誰かと違うことを社会的に公言したことになるからです。(社会的な有徴化)
 NHKの言葉狩り―、いわゆる差別的表現を使わないということで「言葉の世界を貧困化する」と批判されますが、公共放送らしいので、悪意の解釈につながらないような警戒感があることだけは良い点だと思います。
 以前、古い建物だった時代の札幌「コンカリーニョ」にて、古典落語を聞きました。身体的な障害に関わる放送禁止用語の三名だったかが互いに相手の弱みを助け合いながら旅をする…という内容でした。差別的とされる禁止用語で語られる古典落語の凄味が骨身に染みた記憶があります。
 ずいぶん前に亡くなりましたが、私が小さい頃に世話をしてくれた、背中が曲がった叔母のことを思い出していました。子どもの無邪気さで「あのね、セ×シと言うんだよ」と言おうとした途端に母の目配せを感じて、口を噤んだ(つぐんだ)のでした…。遠く重い記憶です。

6/18木 退院971人,治療中201名。いよいよ200名を切るか…治療中人数。2020年06月19日 14:02

6/10水 感染1120人,退院904人,治療中216名
6/11木 感染1127人,退院914人,治療中213名
6/12金 感染1137人,退院926人,治療中211名 (図)
6/13土 感染1145人,退院933人,治療中212名
6/14日 (休刊のためデータなし)
6/15月 感染1159人,退院942人,治療中217名
6/16火 感染1161人,退院953人,治療中208名
6/17水 感染1167人,退院960人,治療中207名
6/18木 感染1172人,退院971人,治療中201名
* 北海道の感染状況。
これまでの死亡者93人 (北海道新聞朝刊から)


全国的な移動規制解除、その初日―。都道府県越えの移動開始です。飛行機も新幹線も。さらに自己防衛しなければっ。
 コロナ関係ではないですが、私の周りで体調不良から病院と関わる流れが起きていて、少し困惑しています。気温も低く天候不順もあるようですが、ユングの言う「非因果的共時性」―。相互に因果的な関係はないけれども、複数の事態がシンクロして起きてしまうこと…。周りの物事がなぜか慌ただしくなってきています。昔だったら祈祷師を呼んで祈る…。結局の所、今でもそれくらいしかできないかもしれませんね。クワバラ、クワバラ。道真公の怒りの雷神を遠ざける…。