あんぱんまん…生前葬…直葬…2021年02月13日 11:45

 先日、アンパンマンのテーマが「実存に関わる…」というコメントをもらいました。
ジツゾンというのは、まあ「生きる意味」「生きる価値」といったことに関わることで、第一次そして第二次世界大戦前後には、例えば精神病に関わってくるような現存在分析とか、その後はサルトルの実存主義とか…。こう書いてくると頭が痛くなるので、アンパンマンに戻ります―。

アンパンマンのテーマ(歌詞、部分…)

なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい君は
いけ! みんなの夢
まもるため

 「やなせたかし」のWikiを読んでいたら、だいぶ高齢になった「やなせたかし」が生前葬を準備していたけれど、たまたま東日本大震災が起きてしまい取りやめた…という話が出ていました。
 昔の知り合いで、当時は珍しかった「生前葬」をした男がおりました。出席はしませんでしたが、かなり気になることでした。
 去年、「志村けん」がコロナで亡くなりました。その前後、死に目にも会えず、意識の無いまま本人は亡くなり火葬となり、「まだ熱が残っている遺骨を受け取りました…」という家族の声が「直葬」という言葉とともに報道されていました。
 そんなことを思っていたら、今朝の朝刊には『明日死んでもいいための44のレッスン』という本の宣伝が載っていて、それなりの高齢になってきた私の目を引くものでした。「(1) 毎朝、ベッドの中でその日やることを決める」…「(44) 死ぬ時は死ぬがよろしい」という…。読む機会があればと思いますが、44個もメモがあったらシンドイ私は、せいぜい「(44)番目」の「…死ぬがよろしい」という位の、ていたらくです。
 無駄な出費はきつく戒めて生活して、小さな商店を切り盛りしていた昔の両親の影響で、私も経費的な無駄には気持ちが動きます。「…となると、直葬ということになるかなあ」。
 親戚の高齢者、超高齢者には、コロナ禍の中、来ていただくのは気が引ける。だいたい、自分でご挨拶できないので大変に申し訳ない…。足腰の弱った老齢の人たちのお世話をするほどの支援体制もないだろうし…。
 人付き合いもきちんとしてこなかったけれども、若干の人たちにはご挨拶したいけれど本人はできないし、葬儀とかをやったりすると「…あの人、誰?!」ということにしかならないような「私と関わりのあった人」に、さみしい思いをさせるのも本意ではないし…。
 結論としては、「コロナ禍のこの際、直葬かな」。その分、まだ生きている間に大事にご挨拶をしながら居たいと思います。


お正月のお年玉年賀状で三枚当たりました!
63円と84円の鶴亀の切手。昔はハガキは五円だったなー。


○私の謬論(びょうろん)

「死後の世界はあるのでしょうか」という問に、釈迦牟尼世尊は答えなかった―。それを「無記」と呼ぶようですが、昔はそれなりに死について考えていて、最終的にはあまり知られていない一つの結論にたどり着きました―。

注意 次は「父の死」の話なので読まないで良いですよー。

 謬論「他人様は亡くなるけれども人は自分の死を体験できない」
   「私は自分の死を体験することがない」

 父が亡くなる時、たまたま私だけが病院に居て、医師・看護師と一緒に父の死に際を看取りました。過去の注射針の使い回しによるC型ウイルス罹患によるC型肝炎でのガン、それがだいぶ転移しての死となりました。最後は苦しがり、スタッフが酸素マスクを口にあてがおうとしますが、苦しいようで頭を左右にして身体をよじります。そうした時間がしばらくあってから、医師が脈をとり「…」と言いました。
 死につつある苦しみを苦しみ抜いて父は亡くなりましたが、そこに至る病院生活の中で、父の素朴な頑張りに少し感動もしていた私には「逝けて良かった…」と、安堵の気持ちが強くありました。
 数日後だったか、私が茶の間に居ると、ドアを開けて喜色満面の父が入ってきたので驚きました。「お父さん、亡くなったんじゃないの?!」…。ハッと飛び起きて夢だと気づきましたが、ほとんど同じ夢を家人も見ていたと後で知りました。

 それからいろいろと考えているうちに、ふと気がついたのが上に書いた謬論(あやまった理屈、論理…)です。いや、今の私は確かにそのように考えているのですが、少し譲って「謬論」…。
 他人様の死に目などには人生上それなりに経験するにしても、「自分が死んでしまったときには、自分の死を体験できない。だって、死んでしまっているので。」そうすると「死への不安とか恐怖とかは、生きている時にしか体験できない」。
 生きているということは死につつあること、死につつあることはまだ生きていること…。だから、人は自分自身の死だけは体験できない…。ということで―

 アンパンマン―
「今を生きる ことで 熱い こころ 燃える」という歌詞。
そんな風に考えながら読んでいてあらためて感動してしまいました。
ナチスの強制収容所で生き残った、ウィーンの精神科医のV.フランクル。実存的というよりも体験そのものから出てきたものの見方は、既存の宗教や哲学ましてはそれまでの心理学からは距離があるように感じています。

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