心理学での一般論と個別。「自粛ケーサツ」などの自己肥大2020年05月19日 10:24

「寺子屋 心理学」という内容で4月から始める予定でしたが、コロナ禍の中で頓挫しているところです。名前とブログの内容がずいぶんかけ離れてしまいました。多少、悔いはありますが「まあ、そんなところだろうなあ…」という思いがあって現状に至っています。

 「心理学」についていろいろと喧伝する学者や教師は、そうやって話をすることで仕事になる訳ですが、その内容は基本的に「統計的事実」です。つまり、「多くの場合、一般的な状況では、斯く斯く然々(かくかくしかじか)」ということを吹聴(失礼)しているわけです。
 学者や大学等の教員はそれで口を糊しているわけで、それで講義もできるし本も売れたりメディアに登場するなど、心理学の専門家ということで社会的に通用します。正確には「一般論として通用する」訳です。

 さて。長年、心理学領域に居て痛感することは、そのように「一般的な話」をすれば良い状況なのか、あるいは「個別の、特定の、その人やそのような事件」について扱うのか、という「一般vs個別」という対立についてです。
 個々人にその都度関わる、たとえば臨床心理士さん達は、特定の「Aさん」に関わりその人の問題の緩和や解決の支援に携わる人たちです。したがって、言い過ぎになりますが、進め方などがAさん以外には通用しないかもしれないけれど、とりあえず今はまず対面している「当のAさん」にとって意味があること、役に立つことが重要…という状況があります。したがって、当面は一般論の入る余地はあまりありません。ということで状況の「一般性vs個別性」ということの違いを峻別する必要性が見えてきます。

○ところで、最近は自粛ケーサツと呼ばれる「セイギの人たち」が話題になります。自粛要請の最中に、出歩いたり、マスクをしなかったり、県外などを訪問していると、名前を明かさない誰だか分からない人に恫喝されたり、いたずら書きされたりする被害が起きています。まるでケーサツみたいなので「自粛ケーサツ」ですが、警察関係者の方々に失礼の無いように、ここではケーサツとカタカナ書きです。

  ○一般論として、「セイギを身にまとうことで、自分自身がヒーローになり過激に行動する」というのは、児童向けのテレビ番組の何とかレンジャーと同じ程度に幼稚な反応ですが、自身をセイギと一体化するという「自己肥大」の喜びにかき立てられるので、なかなか止まりません。心理的な中毒に近く、人としてはかなり貧相なあり方の一例です。

 なお、こうした自粛ケーサツ以前に問題が露呈したのが「あおり運転」でした。あまりのひどさに法制化が進んだので、被害者にさせられる確率が減り状況はそれなりに改善されました。あおり運転の人たちもその基本は「自分がセイギである」「正しいことをやっているのだ」という個人的な正当性・セイギが基本になっています。セイギの喜びに自己肥大化して「社会を代表したかのように…」過激な行動に出る…。自粛ケーサツと類似の構造ですね。さらに、「支配・服従」という事柄が何よりも重要だと感じる「権威主義的性格」という、第二次世界大戦中のナチスドイツの性格分析(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』)にも関わってきます―という風に心理学の図式や用語で解説するのが「一般論」となります。

 セイギに内面を絡め取られた人たちもそうなのですが、極めてはっきりしていることとしては「人は意識・無意識の両面において極めて利害に賢い(さとい)」あるいは「狡猾・ずるい」ということがあります。ネズミなどの動物実験でも明らかなように、「賞罰」「報償と処罰」すなわち、高く評価されること、あるいは、電気ショック(あるいは逮捕、拘留、裁判…)などで罰せられることが大変に良く効く、という事実です。ひどい目に会うことが分かると、ヒトはそうしたことをしなくなる…。これが制度化されて「シャカイ」という箱がようやく実体化するので、警察とか検察とか軍隊とかその他、ホーリツという文書を通じて、様々な「社会的装置」(社会学系の人が好む用語)ができあがってくる…。
※日本人の「自粛能力」の高さは国際的には異様ですけれども。

 ところで、匿名での自粛ケーサツ行為に落ちる人たちについては、何かヤムをやまれず、切羽詰まって、そうしたことをしている事情も推測されます。ひどく不安に襲われているといった個人的事情なのかもしれません。本人や身内に感染リスクの高い人がいるとか、いろいろでしょう。私も高齢者としてその気持ちは分かるところがあります。
 それにしても、その人(Aさん)はそうした自粛ケーサツ行為まで、なぜ至ったのでしょうか…。そうみてくると、もう一般論では届かなくなり始めます。必死に自分を守らないと生きていけなかったようなつらい経験があったのかもしれませんし、それは実際はどういう内容で…。ということで、ここから先はキリがありません。

春先の公園の水飲み場…


○大昔に読んだ短編に『The Book of the Grotesque』(Sherwood Anderson, 1919)というのがありました。「グロテスクについての本」というタイトルが気になったのですが、「人は何かを信じるとグロテスクになる…」というのが主題でした。文学ではこうした個別のお話しの中に、人の心理の個別的特徴とともに、一般論としての主張をスッと盛り込んでくるわけです。そうしてみると、グロテスクな自己肥大に陥らないように、この反対側にあるものとして、例えば、生き方の「美学」が出て来たりすると、どこかで三島由紀夫の作品とぶつかっていきますが、閑話休題。お後が宜しいようで…。

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