高齢者の死亡と生産性?…2020年03月21日 23:43

ウィルス禍のため世界中で高齢者を中心に死者が相次いでいます。それぞれの国の中で様々な文化や生活や時代や歴史を作り出してきた人たちが失われていくことにショックを感じています。
 それとはとりあえず別件となるのですが、こうした時期に出た死刑判決が大変気になりました―。

 相模原障害者施設殺傷事件、いわゆる「やまゆり園事件」で植松被告に死刑判決が出ました。被告は上告しないと発言しているので、このまま進むと死刑判決が確定します。
 被告の考えを、障害のある者は「生きていてもしょうがない」という発言で捉えてみると、以前から政治家の一部にもそうした発言の例がありますが、「社会の役に立たない者」「生産性のない者」は「不要だ」という考え方と共通するところが感じられました。

 ところが、道内の小さな集落や町村での集まりで特に感じることは、老人ホームなどの高齢者の施設や障がいのある人たちの支援施設などは、小さな集落では大きな経済活動であり、それによって集落がまだ維持されているのだ、ということでした。
 介護の人たちが世話をしてくれる高齢者の施設、そこで働いている若いスタッフから中高年の人たちは、そのように老人達が生きて居ることで仕事があり、お給料をいただいて生活が成り立っています。そのお金で家族や子どもたちを養い支えています。
 ですから「…何の役にも立たない年寄りを生かしておいても…」とか「障がいのため、生産?!活動していない者は…」といった発想には、地域を存続させる地域経済の観点が欠落しています。人はそれなりに生きて生活していることだけでも、間違いなく地域維持に役立っています。私の母は92歳となり施設で生活しています。母が直接的に何かを「生産」している状況ではありませんが、その施設では高齢者を支えるスタッフがたくさん立ち働いて、お給料をもらい生活しています。あえて言ってみれば、母は結果的にそうしたシステムの維持・再生産に貢献しています。

 19名の施設利用者を殺害した「やまゆり園」事件の被告は、かつてその施設で働いていたそうです。そうした施設で働くことで自分が生活できていたことをきちんと考えたなら、「役に立たない…」とは絶対に言えなかったはずでした。

 少し話題を変えます―。
雷鳴が轟く空ヘと凧を揚げて、カミナリが電気であることを証明したのがアメリカのベンジャミン・フランクリンでした。以下は実話かどうかは分かりませんが―
 新聞記者がフランクリンに尋ねたそうです―
「カミナリが電気だと分かって、一体何の役に立つのですか?」 
フランクリン「生まれたばかりの赤ん坊は一体何の役に立つのでしょうか…」。
 生まれたばかりで何の役にも立たない植松被告を育てた親のことを、彼は考えたことがないのかもしれないと、つくづく考え込んでしまいます…。

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